用廃機ハンターが行く!

アジア各地に転がる用廃機を見に行くためのガイド(?)

【大阪府】さやま遊園の展示機(記録)

<編集履歴> 01Nov.2021公開

 

 むかし話をしよう。

 かつて大阪府大阪狭山市の狭山池東側には「さやま遊園」という小さな遊園地が存在していた。ここ(34.5040N, 135.5532E付近)には1973年頃から1975年頃までは北からF-86D、F-86F、T-33A、そして正体不明の低翼機の4機が展示されていた。このうちF-86FとT-33A、低翼機の3機は1975年から1979年の間のスケートリンク建設に伴い撤去された。このときF-86Dも園内近所に移設されたが、こちらは1992年から1996年の間に撤去された。

 撤去されたF-86Dは岐阜基地に運ばれたようで、私自身は1996年3月に岐阜基地を見学させてもらった際にファイアーピットに置かれている姿を写真に収めている。この機体はその後の基地祭だったか夏ごろに行われたちびっ子ヤング大会だったかで再訪した時にはすでに黒焦げになった残骸が転がっていた。実際に火をつけて消火訓練で使用したのだろう。

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写真1 岐阜基地南側のファイアーピットに置かれたF-86D。(1996年3月23日撮影)

 

【さやま遊園の機体展示に関する年表】(参考:Wikipedia2021年11月10日閲覧)

1938年05月01日 狭山池東畔の狭山藩下屋敷跡地に南海電鉄会社によって開園

戦時中・戦後は荒廃(イモ畑にされていたとのこと)

1952年 競艇場「狭山競走場」として利用(1955年に住之江競艇場へ移転)

1959年04月01日 南海観光開発会社が経営再開、以後、南海電鉄が経営

1969年04月18日 この日の空撮写真では展示機を確認できない。

1973年05月12日~1975年1月26日 F-86D/F、T-33A、低翼単葉機の4機を園内に展示(*1)

1975年01月27日~1979年10月14日 この間に園内改装、スケートリンク建設によりF-86D展示機移設およびその他の3機を撤去(*2)

1979年10月15日 F-86Dが移設展示され、かつその他の3機が撤去済であることを確認できる最初の航空写真の撮影日(*1)

1986年02月02日 ヒコーキ雲さんへのF-86D投稿写真の撮影日

1992年03月04日 F-86D展示を確認できる最後の航空写真の撮影日(*1)

1996年03月23日 岐阜基地ファイアーピットにF-86D確認、その後、訓練で焼失

1999年05月07日 さやま遊園地のF-86Dが撤去されていることを確認(*1)

2000年04月01日 閉園

*1 : 国土地理院の提供する地図・空中写真閲覧サービスより写真を閲覧して確認

*2 : 上記写真に写る変化より読み取った事項

 

【展示されていた機体】

1.T-33A:ヒコーキ雲さんを見ても(2021年11月10日閲覧、以下同じ)当該機の情報は寄せられていない。そもそもヒコーキ雲さんの県別展示機のリストにはその存在すら記載されておらず、ヒコーキマニアにとっては、今回このブログの情報が初めてのものになるハズだ(注:ただし私自身はJ.A.R.G.が1970年台後半に発行したS/N本の情報は確認していない。以下同じ)。2021年の時点で60~80歳前後の方の子供のころの写真に機体番号の一部だけでも写っていたら、ぜひともお教えいただきたいと思います。こちらでなくヒコーキ雲さんの方でも構いません。どうかよろしくお願いいたします。

 

2. F-86F:こちらもヒコーキ雲さんには記載がなく、ヒコーキマニアにとっては本邦初の情報提供となるハズだ。こちらも断片的な情報でも構いませんので機体番号を特定するヒントがありましたらお教えください。

 

3.F-86D (04-8209)

  ヒコーキ雲さんに投稿された1986年2月2日撮影の写真より、04-8209号機の機体番号を"04-8182"に書き換えたものと思われる。1996年3月に岐阜基地のファイアーピットにあった”182”号機は機首上部の防眩塗装がなく銀地となっているので遊園地から撤去された機体であることはほぼ間違いないだろう。(注:ヒコーキ雲さんに記載された経歴は182号機と209号機(他の機体に”04-8209”と記載した機体を含む)のものが混在しているので非常に分かりづらい)

 F-86Fの機体返還時にも見られた機体番号の書き換えだが、本機も返還機の書類と現物を合わせるための書き換えが行われていたのではないかと考える。F-86Dの運用終了は1968年。当時返還に関する書類作業を行っていた方が35歳程度だったとしても2021年時点では88歳だ。このことを明らかにする手段は事実上残されていない。

 

4. 低翼単葉機(ゼロ戦?)

 ネット上には1975年頃にゼロ戦があったとする発言が存在する。個人的には一般の方の「ゼロ戦」とは「低翼単葉単発機で胴体に日の丸のある機体」全般を指すものだと思っている。このため当時、各地に貸し出されて展示されていたゼロ戦(現在は浜松広報館にある機体)とは限らないと考える。時期的には飛燕、T-6やSNJ、あるいはT-34Aであったかもしれないし、レプリカがあったのかもしれない。ネット上の書き込みから、どうやらレプリカ(質の低い模造品、あるいは”低翼単葉単発”の機体模型)である可能性がある。ただし国土交通省の地図・空中写真閲覧サービスで1975年1月26日撮影の写真を見ると、T-33Aの南側になんとなく黄色っぽく見える機体があるのでT-6ではないかという気もする。こちらもF-86FやT-33Aと同様、全く情報がない機体なので、”何か”をご存じの方がおられましたら、ご一報いただければ幸いです。

 

【最後に】

 さやま遊園に1970年代に訪問した入園者にとっては機体があったことは当たり前の話でしょう。またF-86Dが1機展示されていたことはヒコーキ雲さんで紹介されています。しかし「さやま遊園に4機の展示機があった」という話は”ヒコーキマニア界”ではおそらく初めて確認した事項です(ただし前述のとおり1970年台後半に発行されたJ.A.R.G.のS/N本の内容は確認していませんが)。

 1年ほど前のSNSにて「用廃機は先達によって調べ尽くされている」という発言を目にしています。しかし用廃機については上述のとおり、実は判らないコトだらけなんですヨ、と一言申し上げおきます。

 

【関連記事】

【岐阜県】空自 岐阜基地の展示機 - 用廃機ハンターが行く!

 

以上