<はじめに>
航空自衛隊で捜索救難機として使われてきた国産ターボプロップ双発機のMU-2。
これまで「MU-2S」だと思っていたのだが、近年「MU-2A」という表記を目にすることが多くなった。「MU-2A」と言ったら三菱重工が最初に開発したタイプで、確か2機くらいしか製造されていないプロトタイプ。量産型は「MU-2B」となり、これを防衛庁に納入する形式としたのが「MU-2S(=三菱社内呼称MU-2E)」ではなかったっけ?「MU-2A」は誤植じゃね?と思っていたら、そうでもないようだ。これまで調べたことをまとめてみよう。
なお本記事には未検証の推測(私の個人的な思い込みや検証材料が少ないことに起因する誇大妄想)が多く含まれています。引用する場合には意図しないデマの拡散とならないよう十分にご注意ください。
<結論>
調査結果から得た結論を先に書くと「正式名称はMU-2S」。
部内呼称(使用現場での呼称、俗称)は「217号機まではMU-2S」、「218号機から229号機はMU-2A」となり、「部内呼称MU-2Sのうち、チップタンクを部内呼称MU-2Aと同様に細長いものに換えた機体の呼称は不明」です。
以下に説明を記します。
【追記】
「結論!正式名称はMU-2S」と書いて公表した直後、読者から旧運輸省の航空機事故調査委員会の事故報告書という「お墨付き」文書にMU-2”A”と記されている旨の指摘があった。これは1985年(昭和60年)5月28日に那覇空港で生じたANAのB-747と航空自衛隊のMU-2”A”(73-3222)が接触し、MU-2”A”が中破した事故だ。報告書の中ではしっかりと「形式 MU-2A型」と記されていた。
https://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/rep-acci/60-6-JA8156.pdf
以下に記載した結論に至るまでの推測がひっくり返ってしまったことになるのですが、個々の調査結果には正しい事項も含まれている。今後、検証を続けていくために、当初Upした文章をそのまま掲載し、新たな情報があれば追記していく形としたいと思います(2021年5月1日記)。
*追記(2021年7月17日):当時の運輸省の体制(対応人数も予算も少なかった)から、防衛庁に確認を入れ、防衛庁側から「事故当該機は(通称である)”MU-2A”」という回答があれば、それ以上の追及はせずに、そのまま転記してしまったのではないだろうか?と考えたりもする。
写真1 浜松広報館に展示されているMU-2S(13-3209)。(2021年3月24日撮影)
<部内呼称MU-2SとMU-2A>
1. 捜索救難型の「正式名称MU-2S」の「三菱社内名称はMU-2E」です。
2.「部内呼称MU-2S」は201号機から217号機のことをいいます。エンジン出力が605馬力の「正式名称MU-2S」の中では初期型(古い型)です。
3.「正式名称MU-2S」のうち、218号機から229号機は「部内名称MU-2A」といいます。エンジン出力を同時期に飛行点検隊で使用していたMU-2J並みの665馬力に引き上げ、翼端燃料タンクを細長くして容量を増したタイプです。
4. 「正式名称MU-2S」の「部内呼称MU-2S」のうち何機かは少なくとも翼端タンクを細長いものに変更しました(217号機のタンクが細長く見える写真がネット上に存在します。翼端の取り付け部分も218号機以降と同様にやや頑丈な感じに改修されているように見えます)。エンジンのパワーアップを図ったかどうかは確認できていません。この改修を行った機体が部内で「MU-2S」と言われていたのか、それとも「MU-2A」と呼ばれていたのかは判りませんでした。
<どうして部内呼称が生じたか?>
Go!NavyさんのBBSII、No.11491のgeta-oさん発言を要約して紹介いたします(2014年7月17日投稿)。(可能なら原文を参照ください)
1. 空自のMU-2の名称はいかにも日本的曖昧さからMU-2SとMU-2Aというタイプを残した。
2. MU-2SとMU-2Aの違いは翼端タンクの大型化とエンジンのJ型並みへのパワーアップです。
3. 制式名称を変更するには大臣承認(当時は長官承認)が必要になることから制式名称の変更は行わず、実質的に問題のないMU-2S(S:Search)のままとしました。しかし、これでは運用及び購入金額の算定に影響があることから(218号機以降は)MU-2A(A:Advance)と(部内で)一般的に呼ぶようになった。
(要検証事項:ここで発信者は"MU-2A"呼称を「部内呼称」としているが、運輸省航空機事故報告書で形式が記載されていることから、正式名称となっていた可能性がある。一方で運輸省事故調が自衛隊に「聞いた」だけで登録関連記録を自らが確認せずに"MU-2A"と記載した可能性は否定できない。この場合、自衛隊内では”MU-2A”となっていたので、これがそのまま正式文書に記載されることになったという流れが生ずる。)
4. その結果、正式型式MU-2Sの中に俗称MU-2SとMU-2Aが存在することになった。
<類似の事例>
1. 三菱T-2には初期教育用の「前期型」と20mm砲とレーダーを搭載した「後期型」があるが、正式名称は「T-2」だ。なお1990年代の基地祭では「T-2A」、「T-2B」、「T-2A/B」と書かれた機体説明板も存在していた。これは現場で識別するために使用している俗称をそのまま説明板に記載してしまった例だろう。
2. 航空自衛隊のCH-47Jは気象レーダーを搭載し、燃料タンク容量を増やした形式を「CH-47J(LR)」とカッコ書きで分類・識別している(LR: Long Rangeの略)
3. 技術革新が速く、また消耗品である誘導武器は最近制式化をしていないので毎年最新のものを購入できるようにしているとのこと。
<問題点>
上述のgeta-o氏の発言にあるように「正式名称(MU-2S)をそのままにして俗称(MU-2SとMU-2A)をつけて運用していた」ために、後世になって(今になって)混乱が生じます。すなわち財務系の記録上はMU-2Sを購入しているのに、自衛隊の公式記録中に”得体の知れないMU-2Aなる形式が突然現れるのです。
マニアレベルでは上述のような結論が見えているので「実務上の問題は”全く”ない」けれど、永久保管する公式文書に残しておかないと、のちのち確認する際に問題が生ずるような気がするのですよね。
(昨今の政策関連文書管理方法では、数年すると文書を廃棄されてしまうので、情報公開請求を行っても過去の経緯を調査・検証することができなくなってきている。MU-2S/Aだけの話ではなく、政策等決定の記録が無くなるという本質的な問題が生じていると考えています。)
<影響>
これは私の頭の中だけの仮説です。未検証・未確認の夢物語です。
1. 現場で日常的に使われていた部内呼称(俗称)MU-2SおよびMU-2Aは十分に部隊内に浸透していた。
2. このため救難団史(救難隊史)や救難団HPを作成する際には迷うことなく「MU-2A」の表記を用いた。
3. 航空雑誌など取材者に対して配布する資料や前述の団史・隊史にも「MU-2A」の記述がふんだんに使用されていたことから、それを参照とした記事には「MU-2A」の記載が多くなった。ハセガワのプラモデルに「MU-2A」があるのも、このあたりが原因だろうと思っている。(思っているだけで確認したワケではない。念のため。)
<確認>
1.「MU-2A」ってホント?と思い、情報公開請求で例えばT.O.なり整備記録を取り用施用としても、既に保管期限を過ぎているために廃棄されており確認することはできないだろう。(未実施・未確認事項)
2. 機体の銘板で確認する方法もあろう。現存する機体は2.5機であり、その内訳は九州の個人所有となった201号機の機首部分(元は浜松の喫茶店飛行場展示機)、浜松基地広報館に209号機、新田原基地に228号機がある。新田原の機体の銘板を見れば、形式がどのようになっているか判るのではないだろうかと期待する。(コロナ騒動が落ち着いたら新田原基地の見学と共に調査申請を行ってみますかね)
3. 三菱重工の広報に問い合わせてみる。製造・納入に関する契約や製造記録にはどのように記載されているか?
4. 自衛隊広報を通じて救難団の記録を見せてもらう。ただし前述の通り部内では「MU-2A」の名称が一般的だったので、「そのように書かれている」ということを確認するだけに終わりそうな気がする。
5. 情報開示請求を行う。一番若いS/Nでも73-3229、1987年納入なので契約はその3年前くらいか。納入時の書類でも34年前・・・。やるだけ無駄な気がするな。
写真2 浜松の喫茶飛行場にあった201号機の機首部分は2021年4月末に九州の新オーナーの元に運ばれた。銘板は残っているのかな?
<文献確認結果>
1. 航空雑誌の老舗「航空情報誌」1980~1990年代の3月号あるいは4月号は自衛隊特集号であることが多かった。その中で保有機数を一覧にしたものがいくつかあったが、「MU-2」としか記載されていなかった。
2. 「MU-2A」の定義をハッキリと記載したのは航空情報誌2007年4月号No.763p.20-25「救難部隊発祥の地でV-107とMU-2Aを最後まで運用する浜松救難隊」(石原肇氏)だろう。p.22に「18号機以降はエンジンをTPE-331-6A-252Mに換装したMU-2Aとなった」と記している。これ以前の記事では「MU-2」としか記載していない例が多く、S型かA型かの区別もなかったように思う。なおバックナンバー全てに目を通したワケではないので「2007年4月号」を一つの区切りとして、皆様独自の調査を進めていただければと思う。(近日中に再度新橋の航空図書館で調べてきたいと思っています)
新たな事実が判明した際には、予告なく上記の文章を改訂いたします。その際には他の記事同様に以下の編集履歴を更新しますので、参考としてください。
以上
【編集履歴】
28Mar.2021 公開
18Jun.2021 見直し更新(第2回目、217号機に細長いタンクが装着されていた例を見つけて追記、喫茶飛行場の201号機は新オーナーの元に移転)