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C-1 菅島墜落事故

<編集履歴> 27Aug.2022公開、15Dec.2023見直し更新(第3回目、字句表現見直し)

 

 2022年8月、世界の傑作機スペシャルエディション「川崎C-1」(文林堂)を購入しました。いや~、よくも開発初期の写真やデータや運用者の証言を集めましたね。これは買い!の一冊です!と宣伝しておきましょう。

 さて、この本の中では1983年4月19日に発生した菅島墜落事故(以下、菅島事故と称する)の件について数名の方が語られています。1986年2月18日の離陸失敗事故(58-1010)や2000年6月28日の隠岐沖合墜落事故(88-1027)に関する記述はそれぞれ一人が一か所で触れられている程度ですので、それだけ菅島事故は関係者が多かったうえに衝撃の度合が大きかったのだろうと感じられました。

 その菅島事故ですが、なぜか実際の事故発生状況とは異なる話が広まっており、どんどん拡散していく傾向があります。事故から40年が経つのを前に事実関係を正しておくのも当時を知るマニアの務めと考え、航空情報誌の記事などを元に状況を確認し、ネット上の間違いを指摘しておきたいと思います。

写真1 入間基地航空祭でコンバットピッチブレークを見せるC-1。(2007年11月3日撮影)

 

【なぜかネット上では引用されない事故報告書】

 菅島事故についてはWikipediaや個人のブログ等でその概要を読むことができます。しかし私の知る限りでは当時の新聞報道を元にした記述と、その二次引用記事であって、どうしたことか航空情報誌1983年10月号p.120-121「第1輸送航空隊C-1事故調査結果 局地的な気象急変と旋回指示遅れか」(以下、報告書と称する)を引用したものは存在していないようです(2022年8月26日調べ)。当時の新聞記事には後述しますが誤報が含まれており、この誤報に基づく記述や誤解がネット上や今回出版された本の中にも見られます。

写真2 菅島のハイキングコース内にある慰霊碑の案内図。訪問時には消えかけていたが、まだ第1慰霊碑(2015年春に第2慰霊碑脇に移転)と第2慰霊碑の記載が残っていた。(2019年4月18日撮影)

 

【事故の概要】(報告書より適宜情報を抜粋し、私自身が再編したもの。)

まずは事故の概要を確認しておきましょう。

1. 発生日時 1983年4月19日午前7時17分ごろ

2. 状況 

2-1.小牧基地を午前7時から約15秒間隔で4,1,2,3,5,6番機の順に離陸。

2-2. 4番機は離陸後先行し、天候を偵察しつつ多治見、岡崎、伊良湖岬沖合を通過して東進するコースを飛行(当時は大変天候が悪かった。報告書には気象に関する詳細記述があるが省略する)。

2-3. 1番機(58-1009、8人搭乗)は多治見上空を高度2,500ftで通過後2,000ft、1,500ftと降下して岡崎上空を通過。その後、進路を210度にとった。7時13分ごろ高度1,000ftまで降下(海岸線付近)、さらに7時14分ごろには知多半島先端付近の伊勢湾上で500ftにまで高度を下げた。

2-4. 1番機は7時16分46秒ごろ「Left turn 090 now」と各機に指示。自機は左旋回から約37秒後の17分23秒ごろに高度600ftの山腹に激突。機首磁方位約160度、速度約237kt、バンク角左約22度、ピッチ角約+20度であった。

2-5. 2番機(68-1015、6人搭乗)は約2,000~4,000ft離れて飛行していたが一番機の激突の数秒後に高度558ftの山腹に激突、機首磁方位約140度、速度約242kt、バンク角左約20度、ピッチ角約+15度であった。

2-6. 3番機は約2,000~4,000ft離れて飛行していたが7時15分ごろに前方機を見失ったため、飛行高度を上げ、飛行間隔を広げたという。タカンにより1番機から1マイルの位置を高度600ftを維持しながら飛行し、1番機の「Left turn 090 now」より約14秒後に左旋回を行い、針路がほぼ090度に向かった7時18分ごろ、前方に地物らしきものを認め、パワーを増加するとともに機首を引き上げたが高度595ftの山腹の樹木に接触し、胴体下面と左翼前縁を破損した。接触したのは1番機の左旋回開始の指示から約90秒後(すなわち7時18分16秒ごろ)と考えられており、接触時の機首方位は約102度、速度約244kt、バンク角左約2度、ピッチ角約+18度であった。(注:航空情報誌の文書では明確に読みとりにくい記述があるため、記載された時間と速度から一部私自身が計算して求めた値を含む)

 

【墜落地点の検証】

 新聞報道や上述の報告書には明確な墜落地点の記載は無い(大山の山頂を基点として一番機は南東、二番機は北ないし北西との記述はあるが、距離表現は各紙により異なっている)が、国土地理院の航空写真閲覧サービスで事故後に撮影された菅島の写真を見ると、(移転前の)第一慰霊碑近くと、第二慰霊碑の尾根を挟んだ反対側には木の生えていないエリアが見つかる。事故前となる1980年9月に撮影された写真にはこのような「木の生えていないエリア」は確認できなかったので、ここが墜落点と考えて良さそうだ。この場所について確認してみよう。念のために書いておくが当時はGPSそのものが存在していないので、明確な緯度経度情報は得られていない(GPSの運用開始は本事故から10年と半年が経過した後の1993年12月8日とされる。ただし試験運用なのか本格的な運用なのかは確認していないので、本記事を引用する際にはよく確認すること)。

<確認の手法>

 国土地理院の航空写真閲覧サービスにて菅島上空の事故後の写真とその前に撮られた写真を比較した。事故後の写真は1983年10月30日撮影、整理番号CKK831、コース番号C14B、写真番号21を用いた。直前状況の比較用の写真は1980年9月30日撮影、整理番号KK802、コース番号C2、写真番号22を用いた。菅島の南部および西南部の二か所の岬の特徴ある地形などから墜落地点と思われる「木の無い場所(地表の見える場所)」の角度と距離を測定し、いわゆる三角法で墜落地点を求め、これをGoogleMap上にプロットして緯度経度座標を求めた。最後に事故当時の島の全景写真をネット上で探し、推定した墜落位置と写真に写る(表示された)墜落地点に大きな差が無いことを確認した。

<確認結果>

(1) 1番機墜落地点は34.4910N, 136.8867E付近と推定する(誤差200m程度)。状況から北側(北北西)から左手に大山の山頂を見る形で左旋回をしながら進入、比較的高低差の少ない斜面に沿って磁方位165度ほどで激突したため、破片の速度が落ちず、結果として90mほどの墜落跡を残すことになった。この「細長く木の生えていない場所」の形状は報告書の磁方位とほぼ合致すること、移設前の第一慰霊碑の位置の近くであること、直前の航空写真では「細長く木の生えていない場所」は確認できないことから激突の痕跡だと考えている。

(2) 2番機墜落地点は34.4939N. 136.8915E付近と推定する(誤差70m程度)。

一番機とは異なり大山の山頂より300mほど北東側の尾根の北側に激突。島内で最も急こう配なエリアなのでもろに山腹に激突する形となったためだろう、激突跡(樹の生えていない場所)は30m程度の長さしかなく、かつ比較的丸い形になっている。長径の磁方位は130度くらいだ。報告書の磁方位とは10度程度の差があるが誤差だろう。こちらも直前の航空写真では確認できないことから激突の痕跡だと考えている。1番機に比べて2番機の破損状況が激しいとの報道があったが、この状況からも分かる気がする。

(3) 当時の島の様子を上空から撮影した写真が存在する。映像配信社Afloのサイトで「C-1」「菅島」で検索すると出てくる「RM6603190」あるいは「RM6460125」のサンプル写真(私自身は当該写真の購入はしていない)を見ると大山の山頂付近と墜落現場の位置関係が分かるが、おおむね上述の緯度経度と一致しているように思われた。

日本の航空機事故 > 自衛隊輸送機墜落事故(1983年4月) TV・出版・報道向け写真ならアフロ | 写真素材・ストックフォトのアフロ

(4) 毎日新聞1983年4月21日付朝刊14版23面に島の全景写真が掲載されている。この写真からも上述した座標はほぼ正しいものと考えている(2023年3月21日に縮刷版で確認)

写真3 当時1番機だった09号機搭乗者の慰霊碑。元の設置場所付近の採石が進み、崩落するおそれが高まってきたため、2015年春に第二慰霊碑の脇に移転した。(2019年4月18日撮影)

 

誤報の引用と拡散】

 世界の傑作機「C-1」のp.102右列中段に「2番機が機体に衝撃を受けたとの報告をしたのちに消息を絶った」旨の記載がある。これは朝日、毎日、読売の各新聞社が1983年4月19日付夕刊にて報じた内容だが、これは明らかに「誤報」だ。三紙それぞれが表現は異なるものの「2番機が何かにぶつかり、左翼と胴体下を損傷したので燃料を投棄して帰投すると報告したのちに消息を絶った」という内容を報じているので、19日の日中に防衛庁が行った記者会見の際の発表内容が誤っていたのだろう。新聞各社はこれを「発表通りに正しく報道した」のだが、結果としては誤報となった。そして新聞記事(速報記事)を元にして事故に関する記事を書くケースが後を絶たないため誤った話が拡散している。なぜか「報告書」という最も大切な情報源を無視してネット情報が拡散しているのだ。

 状況から無線で報告したのは樹木に接触しながらも生還した3番機(017号機)であり、2番機(015号機)は「報告するいとまも無く山腹に激突」している。

 

このことを検証してみよう。

 報告書記載の情報から、山腹への衝突時の機体速度は約240kt(1番機は237kt、2番機は242kt、3番機は244kt)、秒速にすると約123m/s程度だ。仮に菅島の最西端(海面高度)から墜落地点まで飛ぶと飛距離は約2kmあるので16秒ほどかかる。ただし地図上の等高線で高度を500ft(150m)に上げてみると、2番機墜落地点は大山山頂西側の標高150mライン最西端から東北東に約600m(飛行時間にして約5秒相当)ある。5秒あれば報告は可能かもしれないが、山腹に激突する直前には機首磁方位210度から090度へと旋回中だったことと、激突時の機首方位が140度であったことから、北西から進入して激突したことは明らかだ。飛行コースを地図上に書き込んでみると、菅島の海岸線(海面高度)から(旋回中と考えて幾分差が生ずるが)400~600m程度の距離しかない。飛行時間にすると3~5秒程度だ。しかも現場は先に述べたように急峻な斜面であり、標高100mから150mになるまでの水平距離は100~200m程度の距離でしかない。この間の飛行時間はわずか0.8~1.2秒程度だ。2番機が何かに当たったという「衝撃を感じて」から「状況を確認」して「その結果から燃料投棄をして帰投する判断を行い」「その判断結果を無線で報告」なんてできるハズがない。

 上述の通り、現地の地形と墜落機の飛行速度・高度・方位を整理するだけでも「2番機が報告」することはあり得ず、また「何かにぶつかったけれども基地に戻ってきた」のは3番機であることは明白だ。このことからも「無線で何かにぶつかったと報告した」のは3番機であり、「2番機が報告した」という報道(元はと言えば、防衛庁の記者会見発表内容)は明らかに誤報であることが分かる。なお報道によると「何かにぶつかった」と報告したのは7時19分ごろとされるが、報告書に基づけば、この時間には既に2番機は墜落しており、3番機が樹木に接触した時間に相当する。

(注:このとき4番機は先行して飛んでいた天候偵察機であり、後続の5,6番機は異常を察知して高度を上げ、難を逃れている。「異常を察知した」ということは、報告書には記載が無いけれど、先行機の墜落時の火の玉を目撃したか、3号機の無線連絡を聞いたというコトだろう。毎日新聞だったと思うが、3番機は何かにぶつかったあと緊急事態発生を告げて上昇した旨の記載があった。5,6番機はこの際に気づいたか、もしくは新聞では報じていないが、3番機が発した緊急事態発生の無線連絡には、後続機の回避策「各機、上昇せよ!」という内容が含まれていたのかもしれない)

 

 混乱する現場の取材に際して、情報が錯綜することは、いつでも当たり前のように生じている。この時に一つ高い所に立って、冷静に辺りを見回すと、何が正しくて、何が間違っているかが分かるものだと思う。しかし、そこまで見回せる人が少ないのが現実ですね。・・・こうして権威ある書籍の権威ある書き手によって誤報が正当化されていくのだろうなぁ。歴史とはこういうモンかと思った次第です。

写真4 当時2番機だった15号機搭乗者の慰霊碑(第二慰霊碑)。(2019年4月18日撮影)

 

【慰霊碑の移設】

 世界の傑作機「C-1」のp.145-147の手記の中にも菅島事故に関して、多くの記述があるが、2015年春に第一慰霊碑が第二慰霊碑の脇に移設されたことについては触れられていない。第一慰霊碑は元の設置場所付近への採石が進み、周辺の地盤が崩落する危険性が高まってきたため、2015年春に第二慰霊碑(015号機の慰霊碑)の脇へと移転した。世傑の手記はその内容から2013年12月29日以降に書かれたものだが、2015年春以前にどこかに掲載されたものの再録なのだろうか?なお例年4月に行われていた合同慰霊祭は遺族関係の高齢化が進んだことから2019年4月の法要が最後となったようだ。

<参考>東海つばさ会の記事

2015年2月23日記事 移転計画の話:東海つばさ会記事

2015年5月18日記事 移転法要の話:東海つばさ会記事

2019年5月8日記事(14日改)、合同慰霊祭は令和元年で最後:東海つばさ会記事

写真5 第一慰霊碑(左側)は2015年春に第二慰霊碑(右側)の脇に移設された。(2019年4月18日撮影)

 

写真6 鳥羽水族館近くから見た菅島。右側の採石場の頂点付近(そのやや左上あたり)が1番機の墜落した場所に相当するが、私の推測では墜落地点は既に崩されて採石されてしまい、残っていないと思われる。(2019年4月18日撮影)

 

 最後に、報告結果が掲載された航空情報誌1983年10月号p.120-121の記事「第1輸送航空隊C-1事故調査結果 局地的な気象急変と旋回指示遅れか」は、現在では国立国会図書館か、東京・新橋にある航空図書館で閲覧することができます。可能であれば現物を読んだうえで、上記の考察の検証を行ってみてほしいと思います。そしておかしい!と思われましたらガンガン指摘してください。

 事故から40年となる2023年4月ごろには「誤報」を元にした書き込みやネットニュース記事が多数出現することでしょう。もし読者の皆様がこの記事の内容が正しいと思うならば、Wikipedia情報を更新するなどを行って「誤報」が拡散しないようしてほしいと思います。

 私自身はパソコン関係は大変苦手なのでWikipediaの更新申請や上記検証中で行った地図や航空写真の紹介、あるいは距離や等高線をオーバーラップして衝突地点を可視化し、判りやすくするようなコトができないのですが、「誰かやってみませんか」と読者の皆様に問いかけておきます。リアリティの高いフライトシミュレーションゲームをやっておられる方は、上述した座標に上述した条件で機体をぶつけてみましょう。おそらく当時の状況について理解が深まることでしょう。

 正しい話を後世に伝えることが、事故で亡くなられた方々への供養になると思っています。

 

【余談: C-1の旋回速度と2番機の墜落時間】

 youtubeに投稿されている入間基地祭の動画の8字飛行を行った際のものとコンバットピッチを行って180度転針する際のものから、C-1の旋回速度を求めたところ、4.3~9.5度/秒という値が得られた。これはまぁ、”急旋回”の時の値だ。この事故で1番機は210度から160度へと50度転針する間に37秒を要しているので1.35度/秒となる。”急旋回”の数分の一のレートだが、通常旋回であれば、こんなモンかと思う。

 ここで2番機に注目してみる。機首方位210度で飛行していたものが墜落時の機首方位は140度となっており、70度変針している。旋回速度が1.35度/秒だと約52秒かかる。3番機は1番機の左旋回指示(7時16分46秒)から約14秒待ってから旋回を開始したというので、2番機は7秒後に旋回を開始したとしよう。16分53秒に旋回を開始し、衝突地点に達するのは52秒後の17分45秒頃のハズだ。1番機の衝突時間は17分23秒ごろとされており、22秒ほどの差がある。航空情報誌には「2番機は1番機衝突の数秒後に山腹に」という旨の記載があるが、数秒と22秒ではやや誤差が大きいように思う。ちなみに左旋回指示と同時に旋回を開始したとすると17分38秒に衝突することになる。これでも数秒ではなく15秒の差が生じている。計算に必要な情報が、かなり欠けていると考えるべきなのだろうなぁ。

 

【参考】

(1) 航空情報誌1983年10月号p.120-121「第1輸送航空隊C-1事故調査結果 局地的な気象急変と旋回指示遅れか」

(2) 朝日新聞縮刷版より、1983年4月19日付夕刊(4版、1,12面)ほか

(3) 毎日新聞縮刷版より、1983年4月19日付夕刊(4版、1,7面)、4月21日付朝刊(14版、23面)ほか

(4) 読売新聞縮刷版より、1983年4月19日付夕刊(4版、1面)ほか

※その他、文中に記載したインターネット上のサイトなど。

以上